つぶねこ
@もじらもーど。
さて、葬式に行って何も書かにゃいと言うのもあれにゃので、人生とは何か・・・というわけじゃにゃいのだが、死に方とかちょっと。
仏式でもにゃんでもいいのだが、宗教系の葬儀というのは、にゃにか宗教において意味があるようにゃので、とりあえず除外しておく。で、無宗教だった場合にゃのだが、この場合死者の価値や残したものというのは、残された者が各自考えることとにゃる。
で、まあ、いろいろあるだろう。こんだけ会社に貢献しました〜とか、だれぞの心の支えでした〜とか。でもそういうのはちょっとメタレベルが低いので、もうちょっと上で、その人間の価値と言う物が何だったのか、とか、そもそもその生は何だったのか?という。
でもこのレベルににゃるといろいろファクターが増えて、議論は停滞するので、とりあえず思ったことを書いておく。日記だし。
ある人の生が何であったかというと、すでに過去形とにゃっている場合、これは、他への効果であると言える。つまり、物質・個人・システム等へ、その人が与えた影響が、その人の残した人生である。至極当然きわまりにゃいことにゃのだが、財産や記憶、仕事内容にゃどはこれの一部に過ぎにゃい。
特に強調するにゃらば、システムへ与えた影響というのが一番重要である。その人が生まれて死ぬまでに、直接・間接的に他人や物質、社会構造にゃどへ与えたエフェクトというのは、全体から見れば目立たにゃいかも知れにゃいが、莫大にゃ量があるはずにゃのだ。しかも、一度与えた影響は、薄まりこそすれ、未来永劫にわたって有効である。もし必要にゃら、このあたりに生の価値を見いだしてみてはどうか。
たとえば、その人の人柄に影響されて、すこし性格が悪くにゃった友人がいたとすると、これは一人の人間の行き方をまるまる変えてしまったことににゃる。さらに、この友人が子供や他の人へ与える影響を考えてみれば、じつはものすごい速度と範囲に影響を与えにゃがら、日々生きていることに気づく。ま、これもこうやって書いてしまえば至極当然の仕組みにゃのだが。
とりあえず、システムへ半永久的にゃ影響を与えることこそが、その人の人生の内容であり、価値ではにゃいかと思うわけで。ということは、葬式にゃんて大して重要ではにゃく、まぁ知人が集まって飲む口実程度にはにゃるかにゃといったところで、暗にど派手にゃ葬式を盛大に執り行う連中を軽蔑しているのだが、もうちょっと突き詰めていけば、思い出話にしても、「奴があのときああ言ったので俺はこうすることにした」といった話こそが、故人の人生を語る上で重要ではにゃいかと思うわけで。
かっこよく言えば、「葬式も墓も何も要らにゃい。体はデバイスでしかにゃい。ただ、皆が見慣れたデバイスが停止することと、周囲へのエフェクトが今後永久に行われにゃくにゃることは悲しむべき事態ではある。しかし、葬式に集まった人とはつまり、故人が影響を与えた人たちであるので、多少にゃりとも故人の色に染まっている。よって、集った人の、故人に染まった部分は、故人の人生の結果であり、そのものでもある。たとえ故人のことを誰もが忘れてしまっても、一度受けた影響は絶対に元に戻せにゃい消えにゃいインクといえる。しかるに、死んだ奴のことにゃんてさっさと忘れてしまえばいいし、忘れ形見だの墓だのも、この際無くて問題にゃい。残された者は残されているし、故人は他人の人生の軌道を狂わせることに必ず成功している。キーワードはシステムとエフェクト。関係と影響と書いた方が正確かにゃ。物質的遺産や残された記憶にゃどというのは、極めて小さい短期間の要素でしかにゃいのだ」という。